SHIZEN Yoga Blog

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アサナ以外のヨガとは

ケイコです。

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今年の9月から新しいシリーズクラスが始まります。そのうちの一つが「ヨガビヨンドアサナ」。

普段のクラスに来て、もう少し聞きたいな、ということありませんか。「ヨガビヨンドアーサナ」のクラスが、そういった疑問の回答になるようなクラスになるといいな、と思っています。

例えば、体のこと。ヨガを続けると、まず自分の体に興味が湧きますね。その時に、自分の体の理解があっているか確認したくなりませんか。「胸椎と胸骨ってどっちがどっちだっけ?」「大腰筋は大切って聞くけど、実際どこにあるのかしら?どういう働きをしているのかしら」そういった解剖学的な説明をムツコ先生が担当してくださいます。

ヨガとは哲学だ、ヨガとは「私とは何か」の疑問への探求だ、と聞いたことがある方もいらっしゃると思います。それはどういうことなのか、ヨガが哲学であり、科学であると言われるところをドミニカ先生が説明してくださいます。

私が担当するのが、ヨガの八支則。一般的に、ポーズを取ることがヨガ、ヨガがポーズだと思われがちですが、ヨガのポーズは、そのうちのほんの一つでしかありません。しかし、普段のクラスでは、アサナのみを取り上げることが多いですね。体という実際に自分が感じることができるところから入る、それがとても安全で理解しやすく、大切な入り口だからです。このシリーズクラスでは、アーサナ以外のヨガについてみていきます。

そして、ナオ先生が担当されるのがOMとサンスクリット語の発音。先生のクラスに参加してみたかったけど、機会がなかった方。チャンスですよ!

興味が湧いてこられた方、シリーズクラス「ヨガビヨンドアーサナ」でお待ちしています。

詳細はこちらから。

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ジョン先生瞑想クラス

ケイコです。

この夏から、ジョン・モンロー先生が瞑想クラスを担当してくださっています。さっそく、参加された方から、1人のみならず、「すごく分かりやすかった!」との声が。

参加者のお一人が感想を書いてくださいましたよ!Rさん、ありがとうございます!

みなさまも是非ご参加ください。

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わたしにとって、yogaのasanaは自分の身体に気付いたり、自我を手放したりする事にとても有効ですが、光の速さで動く思考や感情のコントロールには瞑想がとても有効です。でも、その思考や感情のコントロールが時々とても難しく、座っていてもいろんな刺激にすぐに反応し、どんどんいろんなことを空想したり、仮定したりして思考が止まらなくなってしまいます。

今回、写真の先生の笑顔に導かれ、家でも自分で瞑想を続けられるようになりたいと思いジョン・モンロー先生の瞑想クラスに参加しました。

ジョン・モンロー先生は写真通り優しいオーラの漂うすてきな先生でした。3種類の瞑想を教えて頂き、中でも“歩く瞑想“は初めての行ったのですが、身体の動きに意識を向けて、同じ動きを繰り返すことで簡単に頭を空にするこができ、とても気持ちがよく、身体が呼吸とともにふわーっと上がっていくような体験をしました。

他の生徒さんの瞑想での体験や学びがシェアできたことも興味深かったです。最後、とてもすっきりして気持ち良く夜眠ることができました。先生は毎日約1時間、瞑想を続けているけれど今でも毎回、瞑想から新しい学びを得ていると話していて、瞑想はすばらしいと改めて思いました。

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ナオ先生 Īśvara-Praṇidhāna

4月サチコ先生の「ahimsa」の解説からはじまった、SHIZENヨガのインストラクターによる、yama、niyamaの解説も最後となりました。最後を締めてくださるのは、ナオ先生です。

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Īśvara-Praṇidhāna
「全ての源であり、全てを司っている大いなる力を完全に信頼してゆだねる」

Īśvara=いのちの根源、宇宙を動かしているもの、全てを統括しているもの。
言葉では説明出来ない、マインドでは決して捉えきれないもの。
それを人は、神、と呼ぶ。
Praṇidhāna=完全に常につながっていること、ひとつになること、自分を明け渡すこと。

Īśvara-Praṇidhānaは、神への献身としてよく訳される。
けれど、神という言葉に馴染みがなかったり、違和感がある人には、この訳は、非常にとっつきにくい。
実際は、Īśvara=神は、そこいら中に存在しているものを指し示している。
もっというならば、Īśvaraでないものなんて、この世に存在してない。
例えば、心臓の鼓動が今起きていること、
例えば、理由なく嬉しい気持ちがやってくること、
例えば、急に自分の中の深い闇に遭遇すること。
そのすべてにĪśvaraが生きている。
本当は、深く考察する必要も、無理に信じようと努力する必要もないぐらい明白に存在しているもの。それが、Īśvara。

Praṇidhānaとは、ある姿勢だと思う。
自分の頭の中の小さな世界から飛び出し、
宇宙規模の大きな働きへ意識的につながろうとする姿勢。
なにを心に置いて生きるか、自分のチョイス。

今の私にとって、Īśvara-Praṇidhānaとは、
あらゆる状況において、自分の直感を信頼するという選択肢を取ること。
自分のビビったマインドが何をごちゃごちゃ言おうと、自分より知識のある人がもっともらしいアドバイスをくれようと、それよりなにより自分の中にある「好き!」という感覚、「楽しい!」という感覚、「これがしたい!」という感覚を信頼しその流れにゆだねる。

そして、最後までやりきる。ようするに、言動の責任を取る。
結果はどうなるかわからない。結果は、神の領域だ。手出しはできない。
ものすごく楽しい思いをするかもしれないし、ものすごく大変なことに巻き込まれるかもしれない。だいたいその両方が起きてくる。
それでも最後まで、自分という存在が、大いなる働き=神とつながっていることを信頼して歩み続ける。
この世の光と影の両方を味わい尽くす。
そして、それが、どのような体験であっても、楽しむ。
ぐっちゃぐっちゃの泥にまみれるのや、大雨に打たれるのも、「生きてる!」という実感を与えてくれる。
この自分の人生って言うドラマほど、面白いドラマは、どこのテレビでもやっていない。
他のどこにもない「自分」ほど面白いものは存在しない。
インド古来の叡智ヴェーダはこう詠っている。
「宇宙は完全である。完全から完全を取り去っても、完全のみが残る。」
だから、私のĪśvara-Praṇidhānaの実践は、完全である宇宙から生まれた自分のハートの声に信頼をゆだねて、未知の世界に足を踏み出すこと。

難しいのは、どれが、自分のハートから来る直感で、どれが、自分のマインドから来る嘘かを見分けること。これは、一つ一つ人生の階段を登りながら実際に体験を積んで、判断できるようになる以外、近道はないと思う。
疑ったり、不安に思ったり、怖がったりするのは、マインドが大得意なこと。
信頼してゆだねることは、マインドにとって、とってもとっても難しい。
何しろ、マインドの性質は、何かをつかむ事、過去を今に塗り替える事、未来のストーリーを作ることだから。マインドが変に働くと、心がざわざわしたり、呼吸が浅くなったり、体の調子がおかしくなったり、気持ちが重く苦しくなる。

ハートから信頼してゆだねることは、手放すこと、今に在ること、余計な手出しをしないこと。
これは、私達の本来の姿。
思い出してみると、この地球に生まれた時、私達は、全ての存在を完全に信頼してゆだねていた。
手も足も自分では動かせず、言葉も話せず、自分の生命を維持する方法もしらなかった。
全て周りの存在に任せきっていた。
そして、幸せだった。
なぜなら、自分という存在の奇跡そのものを生きていたから。
ひと呼吸、ひと呼吸が奇跡の賜物、神からの恩寵。
それを言葉ではなく、全身全霊で感じて生きていたから。
だから、私たちは、全員、ハートからの直感で信頼して生きることを知っている。
直感と共に生きている時、私たちは、ハートが開いてワクワクする、呼吸も体も気持ちがいい、例えどこか悪いところがあってもそれほど気にならない、エネルギーが無尽蔵に湧いてくる。

命の始まりには、信頼しか存在していなかった。
そして、命の継続には、信頼が必須。
みんなが、信頼してないで、どうやってこの社会が回るだろう?
どうやって信頼なしで、高速で80キロ以上ものスピードを出して、ほとんどの人々が運転できるんだろう。信頼は=Īśvara-Praṇidhānaは、生活のそこかしこに生きている。

私たちは、命を守るために、自分を守るために、マインドをたくさんたくさん働かせて傷つかないように生きなさいって教えられてきたけど、本当は、マインドを使って自分を守ろうとすればするほど、苦しさが増していってないだろうか。
何かをつかめばつかむほど、自分本来の力は弱まっていってないだろうか。
先を描けば描くほど、心が重くなっていないだろうか。

だから、パタンジャリは、本当に自分を大切にしたいなら、
手を放しなさい、ゆだねなさい、信頼しなさい、と伝えたのだと思う。

「言うが易し行うが難し」
Īśvara-Praṇidhānaは、実践するのが、めちゃくちゃ難しい。
だけど、Niyama(自分との関係を豊かにするための心構え)の最後にĪśvara-Praṇidhānaが書かれているということは、先に書かれたNiyamaを日々の生活の中にすこしづつ取り込みながら道を進んでいけば、Īśvara-Praṇidhānaがなんなのか自ずと見えてくるってこと。

だから、ヨーガスートラの第二章の始めには、Tapas(浄化の行/苦行)とSvādhyāya自分を理解すること/聖典の学習)が、Īśvara-Praṇidhānaの前に示されている。

だから、まず、信頼してゆだねることができないときは、その自分を信頼しましょう!(笑)
つまり、疑いまくり、ネガティブになりまくり、ストーリーを描きまくり三昧です!
どうしようもない時は、どうしようもないんだ!その流れに流されよう。
でも、苦しいよね。

そしたらさ!ヨーガをしようよ。
アーサナでも、呼吸でも、瞑想でも、チャンティングでも、教典を読んでもいいよね。
それでさ、外に出る元気がちょっとでも出たらさ、スタジオにおいでよ。
一緒に心と体のお掃除をしよう=Tapas
一緒に自分を見つめてみよう。= Svādhyāya
一人ではできなくても、仲間がいればできることがたくさんある。
私たちは、あなたが、 Īśvara =神の子供であることを思い出す手助けを
それぞれの方法で用意して待ってる。
さあ一緒に、「自分」という名の奇跡の大冒険に出かけよう!!!

チカ先生 SVADHYAYA

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。

スワディヤーヤ

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「聖典を読むこと、学習すること」

私自身ヨガに出会ったのが20代で、あっと言う間に20年くらい経ち、そのなかで、スワディヤーヤとして理解してきたのはここ最近になってからだと思います。

若い頃は無我夢中で、ヨガの神髄を理解しないままにアサナの練習をしていました。しかし、練習をし、一般生活の中で「苦しみ」がやって来た時に、ヤマニヤマに習ったことが多くあります。

人は皆、年齢とともにおかれる立場や環境や身体には変化があり、その中でも女性は、社会の中のごく小さな社会(家庭)の調和を担うことが多いでしょう。縁の下の力持ちといったところですね!(笑)日常生活において、あまりにも多くの情報を受け情報過多になり、多くの役割を担いすぎていると、知らず知らずにしてマインドを硬くし、何か自分を縛りつけたりして、ネガティブ思考のスイッチを入れてしまい、心と身体がバラバラにしてしまいがちです。

そのような時は、ひとりになり、一定の静けさの中で、誰とも比べず、自己の五感を感じ、先人の引き継がれてきた聖なる書物を読み、学び唱えてゆく練習をしてゆくと次第に内側に在る光がどんどん増して、自己が高まってゆくでしょう。かつてヨガ修行してきたの先人達が、引き継ぎ唱えてきた唱和には表す事は出来ないけれど沢山のパワーがあるのではないでしょうか。「聖なる言葉は心の栄養になり魂を輝かせる。」私のスワディヤーヤの解釈の一つです。

そして、一心一体。この肉体が痛いと感じるのは心ですし、心を感じるのはこの肉体です。

肉体の組織(ダートゥ)は、人に大切に育てられ、自然と調和して生き、祈り、大地の恵みから正しく調理された純粋(サットヴァ)な食物から戴くことで、肉体と共に魂を輝かせ創造してゆくのだと思います。

生きる者の全ての智慧は引き継がれています。学び、教育は人間の根本に影響してると言います。現代のヨガには幾つもの学ぶ方法が存在しています。それぞれの感覚にあった学び方、行ない方を探していきましょう。どの世代でも、学び経験を増してゆく行為は大変興味深く、終わりが無く、永遠に続くでしょう。

私はたまたまヨガを教える機会をいただきました。しかし、これに驕れる事無く、学び続けている生徒であり、そして、未来の次世代へ正しく引き継げるよう、「スワディヤーヤ」の練習と実践を続けていきたいなと思っています。

イネコ先生 TAPAS

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。

「タパス」

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タパスとは、熱心、厳しさ。

人生の最終目的に到達するためにいかなる状況下でも燃えるような努力をすること。

・身体にかかわることは: 禁欲(プラフマチャリア)、非暴力(アヒムサー)

・言葉に関することは: 言葉で他人を傷つけないようにし、神の偉大さをとき、結果にこだわらず真実を語り他人の悪口をいわない。

・ココロのタパスは: ココロが平静で安定しておりいつも自分をコントロールしている精神状態を育てること。

タパス

日本語でいうと修練。アサナの練習を身を焦がすように練習する。去年まではタパスをそう思っていましたが、去年から足を痛めてアサナの練習がまったくできなくなった時期が長くあり改めてタパスを考える機会を持ちました。すでにこのシリーズでサチコ先生がアヒムサーをそして牧野先生がプラフマチャリアを語って下さっていますがまさにこの両瓶が必要です。その両瓶があってこそタパスの教えが実戦できると思います。そしてカラダのタパスを突き詰めていけば言葉やココロのタパスもおのずと実践できるようになってくると思います。わたしにはまだ長い勉強の時間が必要です。

今日はここでいいたいのはみなさんの人生にもすでにたくさんのタパスの教えを学んでいるということです。子供時代を思い出して見ても特に学校生活では勉強や部活動、受験勉強。成人になっても社会、会社の中で金銭的なことやその中でのいろんな問題と向き合いながら生きていくことは子供も大人もまさにタパスの教えを特別なことではなく日々、学んでいますよね?時には眉をひそめることもあると思いますが目をそむけず、自分を嫌わず、前向きに挑戦していくこと。そしてアサナやプラナヤマや瞑想の練習はそのことを教えてくれる師でもあると思うのです。

レイコ先生 SANTOSHA

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。この壁画もレイコ先生が描かれたものなのです。

「サントーシャ」

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知足。満足すること。

今の社会、がんばり続けることが良いとされ、実績重視でお給料はそれに比例して変わるのが普通になってきています。

ゆとり教育で「勉強ばかりやらなくてもいいんだよ」「ナンバーワンよりオンリーワンだよ」と育てられた世代は「あれは何だったのだろう??」と思っているはず。1つの目標を達成したらすぐに、次はこれ、、その次は、、、と次から次に課題が現れ、どんなにがんばっても、いくら進んでもゴールは見えない。そうやって ずっと未来を切望し続けることが 成長に繋がる、、というのが社会的通念となってきているように思います。

これに慣れると 私生活でも1つ何かを手に入れると、それはすぐに当たり前の存在となり、条件反射のように次を欲するようになっていきます。

禅僧であり平和運動家、詩人でもあるティクナット・ハン氏の僧院では、一日に何度か鐘が鳴り、その度に何をしている人も一度動きを止めて、3回深呼吸をするそうです。

サントーシャを実行する為には まずは一度立ち止まって自分が今持っている物を確認することからはじめたら良いと思います。

今、自分にあるもの、家族、友人、仕事、健康、知恵、財産など、それが有ることを認識し直すと 自然に感謝の念がわいてきます。一回につき、そのどれか一つに焦点を絞って考えても良いと思います。

何か新しいものを手に入れたら、手に入れたそれ自体だけでなく、それを手に入れる経緯に関係した人を思い出してみます。何かが去っていったら、それが過去にあったことにより、今の自分があることを想います。感謝している自分を感じる時間を持ちます。

車窓からの美しい風景は、一瞬で過去の物になり忘れてしまいます。結婚したときあんなに仲が良かったパートナーも「この人がいなければ自由な時間がもっとあるのに」と思ったり、就職したとき「やったー」と飛び上がって喜んだ会社も「他の選択肢をもっと見ればよかった」と後悔したりする。

サントーシャは感謝の念。
自分にすでに有る物に感謝の気持ちを持つこと。
自分から去ってゆく物に追いすがらないこと。
感謝の気持ちを持つための時間を持つこと。

ヨガの練習でも 時には 新しいポーズに挑戦するかわりに、力を抜いて「しないこと」をしてみて下さい。自分の中にある空間を見つめてみて下さい。水に沈めたコップが水で満たされるように、そこに呼吸が入ってきて、自然に 強さや幸せが沸き上がってくるのが感じられると思います。

ヒサコ先生 SAUCHA

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。

「サウチャ」

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今回から八支則のうちの2番目、ニヤマ(個人的に心がけるといいこと)に入ります。

ニヤマの一つめであるサウチャ(シャウチャ)は清浄にする、清浄に保つという意味です。これは環境、体、心、自分の外側と内側を清らかな状態に整え維持していくことです。

例えば、家を思い浮かべてみて下さい。キレイな家もずっとほっておけばそのうち汚れます。照明はホコリをかぶって暗くなり、窓もくもって光は遮られ、床はくすんで黒くなってきます。明るかった家もなんとなく暗なり、汚れていくほどに居心地は悪くなってきます。

そんな場所を本来のキレイな状態、心地良い状態にするには掃除をします。散らかったものを片付け、ゴミを捨て、ホコリを払い、掃いて磨いて掃除をすると、部屋はまた明るくなりスッキリとキレイになっていきます。これは汚れやゴミなどが払われる事、又はそのプロセスで感じられる事であり、何かを付けたしたり飾り付けたからではありません。この事はまた、環境ばかりでなく体や心にもあてはまります。

体が詰まる時や調子のよくない時、心に影がさす時、自分自身でいるのが何となく居心地悪く感じられる時、何かが私達の輝きや美しさ、心地良さを隠しています。それは物理的な汚れや老廃物、疲労などかも知れませんし、心に影をつくる考えかも知れませんが、まずはそれが何なのかをみてみましょう。そして適切な範囲で心身がクリアになるような事 ー アサナや瞑想などはもちろん、散歩、お風呂、空を見上げる、休むなど特別でない事でも ー をしてみましょう。

自然はとても素晴らしいお手本を私達に見せてくれています。蓮は昔から清らかさを表す植物として知られていますが、インドでは特に白い蓮の花はプンダリーカと呼ばれて、清らかさとサットヴァ(純質)の象徴とされています。蓮は泥水の中から育ちますが、その葉は水をはじき、水滴は玉になって葉を転がります。転がる水滴は汚れを絡め取りながら流れていくので蓮は泥水に汚されることなくいつもキレイな姿をしています。この素晴らしい自浄作用は自然で無理がなく、静かに行われています。自分で自分をキレイに保つ蓮のサウチャの実践は私達も是非、見習いたいところですね。