「ヨーガハ」なの?「ヨーガシュ」なの?

ケイコです。

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ヨーガスートラの1:2にヨガを定義しているスートラがあります。「ヨガとは意識の動揺を静めるものである」。随分前に初めてヨガのトレーニングを受けた時には、発音は、「ヨーガ チッタ ヴリッティ ニローダハ」と習いましたが、その後、「ヨーガハ」だと教わりました。

yogaḥ citta vṛtti nirodhaḥ
ヨーガハ チッタ ヴリッティ ニローダハ

ḥ hの下に点がある場合は、前の母音を繰り返すので、この場合は、aが繰り返され、haとなり、Yogaha(ヨーガハ)となります。カタカナで「ハ」と書きますが、気音といって、息を吐きながら出す音だと習いました。Nirodaḥも同様で、Nirodaha(ニローダハ)ですね。

ただ、他の文献を見ると

yogaścittavṛttinirodhaḥ
ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ

とあります。あれー?「ヨーガシュ」なの?

サンスクリット語に詳しい方に聞いてみたところ、単語同士を離し、独立して一つひとつ発音する場合は、「ヨーガハ」と発音し、「ヨーガハ チッタ」となるそうです。単語同士を続けて発音する場合は、この場合は気音のḥ がcittaのcの前でśとなり、「ヨーガシュ」(しかもこの「シュ」はカタカナでは表現できないくらいの微妙な音)となり、「ヨーガシュチッタ」となるそうです。

結論。
単語を一語一語発音する場合が「ヨーガハ」
連続して読む場合が「ヨーガシュ」

サンスクリット語なんだか、面白そうで、もう少し勉強したくなりました。こうやって、少しの疑問から、興味を持つんですね。

上記の説明は、サンスクリット語に詳しくない私のためにかなり簡略に説明されたものなので、11月には、ナオ先生にもう少し正確で詳細な説明をお願いする予定ですので、お楽しみに!ナオ先生は、シリーズクラスでマントラのクラスを担当されています。また、11月25日(日)17:00-18:30に「マントラ特別クラス」もされますよ。

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Yoga Beyond Asana

ケイコです。

ガブリエラ先生のワークショップの余韻がまだ残っているスタジオで、第2回目の「ヨガビヨンドアサナ」シリーズクラスが行われました。普段、アサナばかり教えている私。「先生、座学?2時間お話しするの?」と生徒さん方は驚いていましたが、ヨガの魅力については、いくら話しても話し足りないようでした。

Nさんが感想を書いてくださいました。いつもありがとうございます。

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いつも身近で、ヨガ大好き〜!な先生方が、座学のクラスを開いて下さると、速攻クリック。シリーズ開けて〜!と待ちわびていた真夏。9月から2回のクラスを受けました。

アサナを練習したあとは、いつも動かさない体の部位が使われた充実感と共に、内側に「しあわせ」な感じがあります。何だか自分が佳い人になった気がします。
そう、「ヨガってすごいなー!」と、いつも感じているのですが、その秘密は数千年前の先輩達、人間が自然に習得した経験、学習、そこから広がった科学や哲学から分けて頂いた恩恵なんでしょうね。人間としての経験に感謝です。

第1回目はドミニカ先生劇場「私は誰ですか?」でした。過去何回もスワディヤーヤのクラスをして頂いていますが、何回聞いても腑に落ちます。私という幻が消えるかどうかはわからないけど、好きや嫌いという二元の世界から離れて、その境界線を薄くする練習は出来ると思っています。その学びが、ドミニカ先生のお笑いと同時に。楽し過ぎです!

第2回目はヤマ、ニヤマ その1。ケイコ先生の2時間座学は初めてです。シリーズ前から先生がどんなお話をして下さるか、ドキドキワクワク。ヨガ大好き、アサナの練習大好きなケイコ先生に「アサナの出来る格好 必要?」確認してから出席(笑)。これまで自分が読んだ事のある幾つかの本の文章に、ケイコ先生が話して下さった言葉の数々と文献の引用、ケイコ先生の図解もあって、学びたい私達と伝えたい先生の輪が拡がりました。2時間なんて音速で過ぎます。神々や聖人、パタンジャリ、アイアンガー師や、近代の数々の師、ガブリエラ先生やマーラ先生、今までより親近感が増した気がします。

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私達は1人1人みんな違います。それでいいんだと、ヨガを練習している事で深く理解出来ます。私というヨーガの樹を大切に、丁寧に育てて行きたいと思います。どんな葉をつけて、どんな花が咲くか?実はなるか?毎日を楽しんでいきたいと。この先のクラスも楽しみ〜!

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パタンジャリの八支則

ケイコです。

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SHIZEN ヨガスタジオにある素敵な絵をご存知ですか?ヨガインストラクターでもある久保玲子先生が描いてくださったものです。

2枚あって、そのうちの一つにパタンジャリの「八支則(アシュタンガ)」が描かれています。

もう1枚が、八支則(アシュタンガ)の中の最初の2つ、ヤマニヤマが描かれています。

旧ヨガブログで、当時のSHIZENヨガスタジオのインストラクターの先生方が「ヤマニヤマ」の説明をする企画がありました。

「八支則」のカテゴリーにまとめましたので、是非ご覧ください。

9月からの新シリーズクラスでは、「ヨガビヨンドアーサナ」のクラスでヤマニヤマをケイコが担当します。ご興味ある方、是非お申し込みください。お待ちしています!

シリーズクラスのお申し込みは、8/20(月)までです。

ヤマ

サチコ先生 AHIMSA アヒムサ

マドカ先生 SATYA サティヤ

ムツコ先生 ASTEYA アステーヤ

マキノ先生 BRAHMACHARYA ブラフマチャリヤ

ドミニカ先生 APARIGRAHA アパリグラハ

ニヤマ

ヒサコ先生 SAUCHA サウチャ

レイコ先生 SANTOSHA サントーシャ

イネコ先生 TAPAS タパス

チカ先生 SVADHYAYA スワディヤーヤ

ナオ先生 ĪŚVARA-PRAṆIDHĀNA イシュワラプラニダーナ

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アサナ以外のヨガとは

ケイコです。

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今年の9月から新しいシリーズクラスが始まります。そのうちの一つが「ヨガビヨンドアサナ」。

普段のクラスに来て、もう少し聞きたいな、ということありませんか。「ヨガビヨンドアーサナ」のクラスが、そういった疑問の回答になるようなクラスになるといいな、と思っています。

例えば、体のこと。ヨガを続けると、まず自分の体に興味が湧きますね。その時に、自分の体の理解があっているか確認したくなりませんか。「胸椎と胸骨ってどっちがどっちだっけ?」「大腰筋は大切って聞くけど、実際どこにあるのかしら?どういう働きをしているのかしら」そういった解剖学的な説明をムツコ先生が担当してくださいます。

ヨガとは哲学だ、ヨガとは「私とは何か」の疑問への探求だ、と聞いたことがある方もいらっしゃると思います。それはどういうことなのか、ヨガが哲学であり、科学であると言われるところをドミニカ先生が説明してくださいます。

私が担当するのが、ヨガの八支則。一般的に、ポーズを取ることがヨガ、ヨガがポーズだと思われがちですが、ヨガのポーズは、そのうちのほんの一つでしかありません。しかし、普段のクラスでは、アサナのみを取り上げることが多いですね。体という実際に自分が感じることができるところから入る、それがとても安全で理解しやすく、大切な入り口だからです。このシリーズクラスでは、アーサナ以外のヨガについてみていきます。

そして、ナオ先生が担当されるのがOMとサンスクリット語の発音。先生のクラスに参加してみたかったけど、機会がなかった方。チャンスですよ!

興味が湧いてこられた方、シリーズクラス「ヨガビヨンドアーサナ」でお待ちしています。

詳細はこちらから。

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ジョン先生瞑想クラス

ケイコです。

この夏から、ジョン・モンロー先生が瞑想クラスを担当してくださっています。さっそく、参加された方から、1人のみならず、「すごく分かりやすかった!」との声が。

参加者のお一人が感想を書いてくださいましたよ!Rさん、ありがとうございます!

みなさまも是非ご参加ください。

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わたしにとって、yogaのasanaは自分の身体に気付いたり、自我を手放したりする事にとても有効ですが、光の速さで動く思考や感情のコントロールには瞑想がとても有効です。でも、その思考や感情のコントロールが時々とても難しく、座っていてもいろんな刺激にすぐに反応し、どんどんいろんなことを空想したり、仮定したりして思考が止まらなくなってしまいます。

今回、写真の先生の笑顔に導かれ、家でも自分で瞑想を続けられるようになりたいと思いジョン・モンロー先生の瞑想クラスに参加しました。

ジョン・モンロー先生は写真通り優しいオーラの漂うすてきな先生でした。3種類の瞑想を教えて頂き、中でも“歩く瞑想“は初めての行ったのですが、身体の動きに意識を向けて、同じ動きを繰り返すことで簡単に頭を空にするこができ、とても気持ちがよく、身体が呼吸とともにふわーっと上がっていくような体験をしました。

他の生徒さんの瞑想での体験や学びがシェアできたことも興味深かったです。最後、とてもすっきりして気持ち良く夜眠ることができました。先生は毎日約1時間、瞑想を続けているけれど今でも毎回、瞑想から新しい学びを得ていると話していて、瞑想はすばらしいと改めて思いました。

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ナオ先生 Īśvara-Praṇidhāna

4月サチコ先生の「ahimsa」の解説からはじまった、SHIZENヨガのインストラクターによる、yama、niyamaの解説も最後となりました。最後を締めてくださるのは、ナオ先生です。

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Īśvara-Praṇidhāna
「全ての源であり、全てを司っている大いなる力を完全に信頼してゆだねる」

Īśvara=いのちの根源、宇宙を動かしているもの、全てを統括しているもの。
言葉では説明出来ない、マインドでは決して捉えきれないもの。
それを人は、神、と呼ぶ。
Praṇidhāna=完全に常につながっていること、ひとつになること、自分を明け渡すこと。

Īśvara-Praṇidhānaは、神への献身としてよく訳される。
けれど、神という言葉に馴染みがなかったり、違和感がある人には、この訳は、非常にとっつきにくい。
実際は、Īśvara=神は、そこいら中に存在しているものを指し示している。
もっというならば、Īśvaraでないものなんて、この世に存在してない。
例えば、心臓の鼓動が今起きていること、
例えば、理由なく嬉しい気持ちがやってくること、
例えば、急に自分の中の深い闇に遭遇すること。
そのすべてにĪśvaraが生きている。
本当は、深く考察する必要も、無理に信じようと努力する必要もないぐらい明白に存在しているもの。それが、Īśvara。

Praṇidhānaとは、ある姿勢だと思う。
自分の頭の中の小さな世界から飛び出し、
宇宙規模の大きな働きへ意識的につながろうとする姿勢。
なにを心に置いて生きるか、自分のチョイス。

今の私にとって、Īśvara-Praṇidhānaとは、
あらゆる状況において、自分の直感を信頼するという選択肢を取ること。
自分のビビったマインドが何をごちゃごちゃ言おうと、自分より知識のある人がもっともらしいアドバイスをくれようと、それよりなにより自分の中にある「好き!」という感覚、「楽しい!」という感覚、「これがしたい!」という感覚を信頼しその流れにゆだねる。

そして、最後までやりきる。ようするに、言動の責任を取る。
結果はどうなるかわからない。結果は、神の領域だ。手出しはできない。
ものすごく楽しい思いをするかもしれないし、ものすごく大変なことに巻き込まれるかもしれない。だいたいその両方が起きてくる。
それでも最後まで、自分という存在が、大いなる働き=神とつながっていることを信頼して歩み続ける。
この世の光と影の両方を味わい尽くす。
そして、それが、どのような体験であっても、楽しむ。
ぐっちゃぐっちゃの泥にまみれるのや、大雨に打たれるのも、「生きてる!」という実感を与えてくれる。
この自分の人生って言うドラマほど、面白いドラマは、どこのテレビでもやっていない。
他のどこにもない「自分」ほど面白いものは存在しない。
インド古来の叡智ヴェーダはこう詠っている。
「宇宙は完全である。完全から完全を取り去っても、完全のみが残る。」
だから、私のĪśvara-Praṇidhānaの実践は、完全である宇宙から生まれた自分のハートの声に信頼をゆだねて、未知の世界に足を踏み出すこと。

難しいのは、どれが、自分のハートから来る直感で、どれが、自分のマインドから来る嘘かを見分けること。これは、一つ一つ人生の階段を登りながら実際に体験を積んで、判断できるようになる以外、近道はないと思う。
疑ったり、不安に思ったり、怖がったりするのは、マインドが大得意なこと。
信頼してゆだねることは、マインドにとって、とってもとっても難しい。
何しろ、マインドの性質は、何かをつかむ事、過去を今に塗り替える事、未来のストーリーを作ることだから。マインドが変に働くと、心がざわざわしたり、呼吸が浅くなったり、体の調子がおかしくなったり、気持ちが重く苦しくなる。

ハートから信頼してゆだねることは、手放すこと、今に在ること、余計な手出しをしないこと。
これは、私達の本来の姿。
思い出してみると、この地球に生まれた時、私達は、全ての存在を完全に信頼してゆだねていた。
手も足も自分では動かせず、言葉も話せず、自分の生命を維持する方法もしらなかった。
全て周りの存在に任せきっていた。
そして、幸せだった。
なぜなら、自分という存在の奇跡そのものを生きていたから。
ひと呼吸、ひと呼吸が奇跡の賜物、神からの恩寵。
それを言葉ではなく、全身全霊で感じて生きていたから。
だから、私たちは、全員、ハートからの直感で信頼して生きることを知っている。
直感と共に生きている時、私たちは、ハートが開いてワクワクする、呼吸も体も気持ちがいい、例えどこか悪いところがあってもそれほど気にならない、エネルギーが無尽蔵に湧いてくる。

命の始まりには、信頼しか存在していなかった。
そして、命の継続には、信頼が必須。
みんなが、信頼してないで、どうやってこの社会が回るだろう?
どうやって信頼なしで、高速で80キロ以上ものスピードを出して、ほとんどの人々が運転できるんだろう。信頼は=Īśvara-Praṇidhānaは、生活のそこかしこに生きている。

私たちは、命を守るために、自分を守るために、マインドをたくさんたくさん働かせて傷つかないように生きなさいって教えられてきたけど、本当は、マインドを使って自分を守ろうとすればするほど、苦しさが増していってないだろうか。
何かをつかめばつかむほど、自分本来の力は弱まっていってないだろうか。
先を描けば描くほど、心が重くなっていないだろうか。

だから、パタンジャリは、本当に自分を大切にしたいなら、
手を放しなさい、ゆだねなさい、信頼しなさい、と伝えたのだと思う。

「言うが易し行うが難し」
Īśvara-Praṇidhānaは、実践するのが、めちゃくちゃ難しい。
だけど、Niyama(自分との関係を豊かにするための心構え)の最後にĪśvara-Praṇidhānaが書かれているということは、先に書かれたNiyamaを日々の生活の中にすこしづつ取り込みながら道を進んでいけば、Īśvara-Praṇidhānaがなんなのか自ずと見えてくるってこと。

だから、ヨーガスートラの第二章の始めには、Tapas(浄化の行/苦行)とSvādhyāya自分を理解すること/聖典の学習)が、Īśvara-Praṇidhānaの前に示されている。

だから、まず、信頼してゆだねることができないときは、その自分を信頼しましょう!(笑)
つまり、疑いまくり、ネガティブになりまくり、ストーリーを描きまくり三昧です!
どうしようもない時は、どうしようもないんだ!その流れに流されよう。
でも、苦しいよね。

そしたらさ!ヨーガをしようよ。
アーサナでも、呼吸でも、瞑想でも、チャンティングでも、教典を読んでもいいよね。
それでさ、外に出る元気がちょっとでも出たらさ、スタジオにおいでよ。
一緒に心と体のお掃除をしよう=Tapas
一緒に自分を見つめてみよう。= Svādhyāya
一人ではできなくても、仲間がいればできることがたくさんある。
私たちは、あなたが、 Īśvara =神の子供であることを思い出す手助けを
それぞれの方法で用意して待ってる。
さあ一緒に、「自分」という名の奇跡の大冒険に出かけよう!!!

チカ先生 SVADHYAYA

SHIZENヨガインストラクターによるYama、Niyamaの解説です。

スワディヤーヤ

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「聖典を読むこと、学習すること」

私自身ヨガに出会ったのが20代で、あっと言う間に20年くらい経ち、そのなかで、スワディヤーヤとして理解してきたのはここ最近になってからだと思います。

若い頃は無我夢中で、ヨガの神髄を理解しないままにアサナの練習をしていました。しかし、練習をし、一般生活の中で「苦しみ」がやって来た時に、ヤマニヤマに習ったことが多くあります。

人は皆、年齢とともにおかれる立場や環境や身体には変化があり、その中でも女性は、社会の中のごく小さな社会(家庭)の調和を担うことが多いでしょう。縁の下の力持ちといったところですね!(笑)日常生活において、あまりにも多くの情報を受け情報過多になり、多くの役割を担いすぎていると、知らず知らずにしてマインドを硬くし、何か自分を縛りつけたりして、ネガティブ思考のスイッチを入れてしまい、心と身体がバラバラにしてしまいがちです。

そのような時は、ひとりになり、一定の静けさの中で、誰とも比べず、自己の五感を感じ、先人の引き継がれてきた聖なる書物を読み、学び唱えてゆく練習をしてゆくと次第に内側に在る光がどんどん増して、自己が高まってゆくでしょう。かつてヨガ修行してきたの先人達が、引き継ぎ唱えてきた唱和には表す事は出来ないけれど沢山のパワーがあるのではないでしょうか。「聖なる言葉は心の栄養になり魂を輝かせる。」私のスワディヤーヤの解釈の一つです。

そして、一心一体。この肉体が痛いと感じるのは心ですし、心を感じるのはこの肉体です。

肉体の組織(ダートゥ)は、人に大切に育てられ、自然と調和して生き、祈り、大地の恵みから正しく調理された純粋(サットヴァ)な食物から戴くことで、肉体と共に魂を輝かせ創造してゆくのだと思います。

生きる者の全ての智慧は引き継がれています。学び、教育は人間の根本に影響してると言います。現代のヨガには幾つもの学ぶ方法が存在しています。それぞれの感覚にあった学び方、行ない方を探していきましょう。どの世代でも、学び経験を増してゆく行為は大変興味深く、終わりが無く、永遠に続くでしょう。

私はたまたまヨガを教える機会をいただきました。しかし、これに驕れる事無く、学び続けている生徒であり、そして、未来の次世代へ正しく引き継げるよう、「スワディヤーヤ」の練習と実践を続けていきたいなと思っています。